漂う随想

心に遷り行く物事をこっそり書き留める。

(8)華やかなステージ上での暴力

 世界中が見守る中で、突如、ステージに歩み出た男は、ステージに立っていた男の左頬に平手打ちを食らわせた。この2022年3月27日の米国アカデミー賞授賞式での出来事は、世界中で大きく報道されており、議論されている。

 事件の詳細は色々に報道されているが、ここに簡単にまとめておく。

 その華やかな会場でステージに立ったコメディアンは、そのトークで笑いをとっていた。そして、ある女優の頭髪のことを笑いのネタとしたとき、その女性の夫である俳優は怒りを覚え、ステージに上がり、コメディアンに物理的暴力を加えた。概ねこんなところだろうか。

 

 私見を述べる。もちろん、これが正しいなどと押し付けるつもりはない。

 

 まず最初に、個人的な感想として、この女優の頭髪に関するこのコメディアンのトークのネタは、お世辞にも上品なものとは言えなかったと私には感じられる。不愉快な感情を抱いた人がいたとしても、全く不思議はないと思う。まして、その女優の頭髪がある種の病による苦渋の選択の結果であるなら、猶更ではないか。

 私と同じように感じる人もいるだろう。しかし、私は自分だけが正しいなどと言うつもりは全くない。私とは違う感じ方をした人もいたに違いない。感じ方は人それぞれであるのだから、これもまた当然のことだろう。

 実際、このコメディアンも、私とは違う感じ方をする一人なのかもしれない。そうでなければ、このような話を世界中が見守るステージで行う理由がない。そして、それは決して悪ということでもない。善悪の価値観などは相対的なもの。見る人によって善と悪は入れ替わることさえあるのだから。

 今回、残念ながら、このコメディアンと、この女優の夫である俳優とでは、全く異なる感じ方をしていたらしい。そして、この異なる価値観の二人の人間がたまたまあの場で出会ったとき、一方は、受け入れがたい相手の価値観を、物理的な暴力によって封じようとした。

 

 私たち人類は、数十万年とも数百万年ともいわれる長い長い時間の末に、自由・平等・民主主義という社会システムを発明した。それはまだ全世界に遍く広がったとは言い難いが、私はこの社会システムを完全な理想への類似形として信じている。その世界では、対立は自由と平等に支えられた対話と相互理解によって解決されるべきであり、いかなる場合であっても、自らの正当性を腕力をもって主張するようなことがあってはならない。

 歴史を学べば、私たち人類にとって、長い間、より強い腕力を備えた者だけが正義を主張することを許されてきたことを知るだろう。それは、ただ歴史書の中だけの話ではない。この現代にあっても、例えば、今まさに行われているウクライナに対するロシアの国家的行為を見れば、いまだにそのような考えを疑うことなく持ち続けている者があるらしいことがわかる。悲しいことだ。

 私たち人類は、より腕力の強い者の価値観が正義として社会に強制されてきた時代から抜け出そうとしている。まさにその過渡期に今はある。過渡期なのだから、ステージ上のコメディアンを物理的暴力で封じようとする男がまだ残っていたとしても、不思議はないのかもしれない。しかし、その行為を認めることは、人類の歴史に逆行しているのではないか。

 

 

2022年4月6日