漂う随想

心に遷り行く物事をこっそり書き留める。

(4)人生の名人料理人

 近所に素晴らしいラーメン屋さんがある。手打ちの麺は弾力があるが固くはなく、スープは出汁(だし)がよく出ていて味わい深い。これ見よがしに飾り付けた豪華さはないが、スープと麺と具のバランスが絶妙なのだ。

 ひとたびこの店を訪れると、誰もが異論なく「美味い」と言う。私もその一人だ。店主は素晴らしい腕と舌を持っているに違いない。そして、この店を訪れた客は皆、口をそろえて「あのラーメン屋の店主は名人だ」「名人が作るラーメンはやっぱり違う」と讃えるが、しかしそれで納得したつもりになり、それ以上を知ろうとする人は少ない。

 

 小さな町工場を世界的大企業に育て上げた人がいる。誰もが彼を優秀で才能ある経営者だと讃える。難関国家資格に合格して活躍している人がいる。誰もが彼を頭脳明晰で理知的だと讃える。若くして国家の要職に就き、国民を導く礎となっている人がいる。誰もが彼を卓越した視野をもち人々を導くカリスマ的魅力があると讃える。時に羨望の眼差しで、いや、時には嫉妬にまみれた視線で。

 そんな羨望や嫉妬の眼差しの持ち主は、たいていこう思っている、「だが私には彼らのような優秀さも、才能も、明晰な頭脳も、理知的精神も、卓越した視野も、カリスマ的魅力もない」と。そして今日も、悪態をついて誤魔化しながら退屈な人生を生きている。彼らを「なんと強欲で利己的な卑劣漢らよ」とこき下ろし、「それに比べて私は何と清貧なことか」と空虚な優越感に浸って自らを慰める。そしてラーメン屋に行く。ラーメンは庶民の味方だ。

 

 どのような精神の持ち主にとっても、旨いラーメンはやっぱり美味い。そして今日も、やっぱり店主の腕と舌を讃えるのだ。だが、その時こう思ってはいないだろうか、「こんな腕と舌は、私にはない、私には無理だ」。多くの人がそう思っている。だが、今から10年前、ある店のカウンター席で一人の客がこう考えたのだ、「ここのラーメンはなぜこんなに美味いのだろう、どうやってこの麺を打ち、どんな出汁を使い、どんな工夫をしているのだろう」と。そして彼は自分の家に帰ると、さっそく台所で小麦粉をこね始めた。鶏ガラを鍋で煮始めた。初めて作ったラーメンは、とても食べられたものではなかった。しかし彼は翌日も、その翌日も、ラーメンを作り続けた。それがこの店の店主の10年前の姿である。

 

 ラーメン好きは多い。しかしラーメンを作ったことのある人はほとんどいない。成功した人の全員が、かつて最初の一歩を踏み出した人である。このことに一つとして例外はない。あの経営者も、あの合格者も、あの指導者もそうだった。人生において、その最初の一歩の意味はあまりに大きい。それでもまだ、空虚に「清貧」を気取るのか。

 

 

2022年1月12日