漂う随想

心に遷り行く物事をこっそり書き留める。

(10)怒りの背後には常に弱さがある

 先日、仕事でとある人と話をした。仮に「甲氏」としておく。彼は約束の時刻になっても現れず、改めてお電話すると10分ほど遅れてやってきた。この仕事で彼と会うのは三回目になるが、遅刻も三回目である。

 今回は甲氏からの希望で面談の日程を設けた。以前に結んだ契約の当事者を変更したいという。自分が結んだ契約の名義を、自分の息子の名義にしたいというのだ。あまりない事例ではあるが、絶対にありえない事例でもない。契約の相手方である乙氏と三人での相談を行い、今回は甲氏の事情を汲んで、これを認めることになった。

 さて、当然であるが、甲氏に代わって新たに契約当事者になる甲氏の息子さんとも、お会いしてきちんと状況を説明し、納得していただいた上で、新たな契約を結ぶ必要がある。父親だからといって、息子の名前で勝手に契約することなどできない。そこで、改めて甲氏の息子さんを含めた4者での面談の機会を設ける必要が生じた。甲氏の息子さんは少々遠方にお住まいとのことだ。わざわざこちらまでお越しいただくにも、甲氏、甲氏の息子さん、乙氏、私の4者の日程調整などが必要になる。これは早めに調整しないと、仕事がズルズルと引き延ばされてしまい、具合が悪い。それに、甲氏はまだこの話を息子さんにしていないそうなので、その点でも具合が悪い。

 

 そこで私は、甲氏にこのようなお願いをしてみた。

「今日、お帰りになってからでも息子さんに電話して、この事情を説明していただき、いつ息子さんがこちらに来られるか、私と乙氏に連絡してください。」

 あらためて思い返してみても、普通のお願いだと私には思える。何も無茶な頼みなどしてはいないはずだ。むしろ、仕事を進める上で当たり前のお願いをしたと思える。しかし、このお願いに対して甲氏の顔色はみるみる赤変したのだ。これには少々驚いた。

「息子に電話などしない!そんな必要はない!息子が来た時に伝える!それで十分だ!」

 正直なところ、何が彼の心情に起きたのか、この時にはまだ私には理解できなかった。そして私は、…これが私の少々いけないところなのだが…甲氏を確かめるように、このように言ってみた。

「息子さんに電話して私のことを伝えていただければ、私から改めて息子さんにお電話して、詳しい話を説明しますよ。お越しいただく前に説明しておいた方が、実際にお会いしたときに話がスムースに進むと思うのです。色々と用意していただく物もありますし。」

 さて、甲氏はどうなったか。果たして彼の顔はますます赤みを強めたのだった。予想通りだ。

「俺は客なんだから、俺のいう通りにしていればいいんだ! 俺が大丈夫だと言ったら大丈夫なんだ! オマエは余計なことをしつこく言うな!」

 私はそれ以上何も言わず、とりあえずその場を収めた。甲氏について何か一つ理解できたような気がしたからだ。

 

 彼は怒った。その怒りの背後には何があるのか。どうやら、彼は息子さんに電話することを非常に避けているらしいことは、明らかだ。甲氏はそこに触れてもらいたくないのだ。その理由は、私には分からない。だが、それは決して強さではなく、弱さであることは間違いない。甲氏は息子さんとの関係に弱さを抱えている。甲氏は今まさにその自分の内部の弱さに直面し、必死で自分を守っているのだった。

 

 

 

 これは私の個人的経験からくる視野の狭い世界観かもしれない。私はそれなりに色々な人物と関わる機会を得てきたが、その中で感じてきたことがある。

 本当に強い人物は常に温厚な態度で優しく、他人に開かれて受容的で、包容力がある。相手に合わせることのできる柔軟性を当然のこととして発揮する。つまり、この世界の色々なものを受け止めてなお決して揺るがない確固たる自己を持っている。

 その一方で、その本質において弱さを抱えている人物は、短気で怒りっぽく、他人に対して不寛容で支配的で、思考が硬直して柔軟性に欠け、心理的な不安定さをしばしば露見してしまう。自分の周りの世界を自分の知っている物で固めないと、不安で仕方ないのだ。自分の無知さ無能さにあまりにも敏感になり過ぎて、いつも世界に怯えて暮らしているのだ。

 つまり、怒りの感情とは、自分の弱さに気付くきっかけなのかもしれないと思う。誰しも怒りを爆発させてしまった経験があるだろう。その時、私たちの心には明らかに弱さがあった。己の弱さを恥じ、弱さを隠すために大きな声で乱暴な言葉を吐き高圧的な態度をとる。弱さこそが、怒りの本当の正体なのだ。

 だが、意外と多くの人は気づいていないかもしれない。弱さは隠そうとするよりも、曝け出した方が、時に人生は上手くいくものだ。しかし、これは循環論かもしれない。弱さを曝け出すには、それだけの強さがいる。強ければ、弱さを曝け出すことができる。弱いから、弱さを曝け出すことができず、そして人はしばしば怒りの感情で人生の道を失うのかもしれない。

 まずは、弱さを曝け出す強さを持とう。

 

 

「いやー実はさ、息子との関係、あんまり上手くいってないんだよね。今回の話もちゃんと伝える自信がないんだよ。何か良い方法ないかな?」

 こうして文字にすると簡単なことだが、これを実際に口にすることは甲氏にはとても難しいのだろう。

 

 

 

2022年7月15日