漂う随想

心に遷り行く物事をこっそり書き留める。

(6)賢者は一日に3分間以上考えない

 人間は考える葦である。

 パスカルの言葉に異論をはさむつもりはない。私たちは、日々、考える。実に様々なことを考える。この全世界、この全宇宙のことでさえ、私たち一人ひとりの思考の中に存在する。

 しかし、気を付けなくてはならない。考える葦ならば、その考えるという行為は、しばしば精神にとって有害な副作用を伴うことを知っていなければならない。

 

 私は、試験中の、または試験勉強中の学生について言っているのではない。難解な理論と奮闘している学者について言っているのでもない。そのような方々は、思う存分に思考の海の水平線の果てを目指すと良い。

 

 しかし、例えば、自分の老後について、子どもの将来について、来年の収入について、過去の失敗について、友人の発した言葉の意味について、一日に3分間以上考えているとしたら、それは愚か者である。きっとパスカルも同意するのではなかろうか。

 そのような者の頭の中では、いつの間にか思考は糸が切れた凧のように不穏な空に千々に舞い上がり、風に吹かれて回りながら翻弄されてしまう。そして、結末はいつも決まっている。不安、焦燥、恐怖、憤怒、怨恨といった感情が混じり合って沸き上がり、その精神を際限なく蝕むのだ。

 しかし愚かな者は、そうと分かっていたとしても、同じことを毎日のように繰り返す。それは仕方のないこと、人間の理性の本性だと諦めている。しかし、それは全く間違っているのだ。それは、ただ脳を無意味に動作させているに過ぎず、思考によって生まれたエネルギーは、ただ脳を痛めつけるためだけに使われている。

 賢い者は、何かについて考え始めるその前に、その思考の先に起こりえる結果を予測する。まるで旅をする者が、旅立つ前に地図を見て目的地や道筋を確認してから歩き始めるように。決して、闇雲に手探りで深い森に分け入ったりなどしない。この思考の先には、得るべき有益な結論があるはずだと、そう確信してから考え始める。だから、考え始めたその時には、ある意味で、もう結論の半分は出ていると言っても良いかもしれない。あとはそれを探し出すだけなのだ。だから、3分間以上考える必要などない。

 また賢い者は、その思考の先に何らかの明確で有益な結論がないと気付いたなら、そもそもそのことについて考え始めたりなどしない。また、既に考え始めてから途中でそのことに気付いたなら、いつでも躊躇うことなく旅をやめることができる。だから、3分間以上考えることなどない。

 そう、思考という行為は、人間にとって有害な副作用をもっているから、無駄に考えたりしないのだ。もちろん、考えることを目的として思考したりもしない。それは退屈な者が行う全く愚かな自傷行為だ。賢い者とは、そのようなことを巧みに避けて、本当の意味で自分を大切にできる者のことなのだ。

 

 愚かなる者よ。無益な思考で貴重な人生の時間を無駄にし、自らの精神や脳さえも蝕むことなかれ。思考はいつでも悪魔に転じ得る。悪魔の巧妙な技とは、その存在を気付かせないことなのだ。

 考える時間は短ければ短いほど良い。一日にせいぜい3分間も考えれば十分だ。

 

 

2022年1月31日