漂う随想

心に遷り行く物事をこっそり書き留める。

(1)礼儀作法

 ひと昔まえのこと、テレビ番組などでやたらととりあげられていた礼儀作法。その道の専門家という方が登場し、日常的にありふれた場面を例にとって、「これは失礼なやり方です」「これが正しい礼儀作法です」と説明する。

 奇妙な違和感をもった。

 礼儀作法とは、そもそも何のために生まれたのだろう。

 この社会を平穏で暮らしやすくしているものの中で欠かすことのできないものの一つが、相手を尊重する気持ちだと私は思う。しかし、これを伝えるのは難しい。言葉にできたら良いのだが、それはしばしば面映ゆい。そして、言葉はときに正しく真意を伝えない。口から出た言葉は、耳に入った瞬間には多かれ少なかれ、時には深刻なほどに、その意味を変えている。何かそれに代わるもの、補うものが必要である。直接にそうと伝えずとも、日常生活の中でそれを伝える方法が必要である。きっと、そうして生まれてきたのが礼儀作法だったのではあるまいか。自らの心の中にある相手を尊重する気持ちを、さりげなく相手に伝える、それが礼儀作法であることに異論はないのではなかろうか。もっとも、慇懃無礼という言葉が証明するように、これも完璧なやり方ではないことは認めざるを得ないのだが、だからといってどの社会どの文化にも礼儀作法があることから、それが必要とされていて一定以上の機能を果たしていることも明らかであろう。

 しかし、使い方を誤れば便利な道具も凶器に変わるように、礼儀作法も社会の平穏を破り暮らしにくいものとするシステムに変わってしまうのかもしれない。

 「あなたは礼儀作法がなってない」「あなたは失礼だ」

 ほら、途端にあなたの暮らしは窮屈で居心地悪いものに変わってしまった。もうあなたは逃れられない。マナーについてインターネットを検索し、何冊もの本を読み漁る。しかし、あなたの暮らしの平穏はもう帰ってこない。数々の様々な異なる情報の渦に飲まれて、眠ることさえ妨げられる、仕事が手に付かない、大好きな音楽が無味乾燥な音の濁流になる。

 礼儀作法は、そもそもこんなことのために生まれたのではなかったはずだ。何かが間違っている。そう、礼儀作法の使い方が根本的に間違っているのだ。

 しかし困ったことには、誤った礼儀作法の用法は実は無限に再生産されてこの社会に蔓延っているのだ。誤った用法によって自信を失わされた哀れな者は、他者に対して同様に誤った礼儀作法の用法を用いることで、他者の自信を失わせ、その代価として幻想の中に自分の自信を取り戻そうとする、底の抜けた水瓶に蜜を注ぐように。こうして私たちの社会はどんどん居心地悪いものへと変わっていく。礼儀作法全体主義社会が完成する日も近い。

 断ち切らなければならない、本来の礼儀作法が目指した平穏で暮らしやすい社会のために。

 相手に自分への尊敬を要求することがどれだけ傲慢で失礼なことなのか知る者であれば、断ち切る術(すべ)も当然に知っているはずだ。礼儀作法は自らに課すものであって、相手に求めるものではない。

 

2021年4月30日